色々ほぼほぼ草稿倉庫

色から思う事や、思い出す事、色には関係ないことも。草稿レベルの弱虫さで。

青、blue、azul

青。

私の一番好きな色だ。

なぜ好きだと思いはじめたかは、恐らく父が緑が好きだと言ったせいだと思う。

私はあまりかわいらしくない子どもで、父のことはあまり好きではなかったから、何でも父とは違うということを意識していた。

けれども悔しいことにまだ覚えていることがある。

父が緑を好きな理由が「 自然の色だから」ということ。

それにならって空と海の色に目が移るようになったこと。

…好きに理由などあまりないと考える方が気が楽である。

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英語圏での blue のイメージを知った時、私はショックを受けた。

blue bird とかそうした幸せなイメージだけならまだしも、「わいせつな」という意­味で用いられることがあると聞いて、大切なものを汚された気分になった。

犬の吠える声を bowwow と表現するのにもちょっぴり幻滅した。

同じ人間でも違いははっきりあるのだと、気落ちす­る必要はないのにがっくりくる。

以前、イギリスでホームステイをした。 滞在先のマザーは余計なやりとりは避ける人だった(私の英語力が低く、そう思えただけかもしれない)。

それがホテルに泊まっているようで気楽だったが、ああ この人とは好みが合わないと思ったことがある。食である。

それまでずっと置き手紙でやりとりをしていたが、その日はいつもより早く帰れた。

一度も食卓を共にせずに帰国するのも気が引けるので、勇気を奮って一緒に食べる 。

仕事はどうなの、どこへ行ったの、楽しかったの、と色々気を遣って尋ねてくれたが、話が目の前の食事のことになった。 一通りのことを話し終えたからだろう。

幸いかどうかは分からないが(イギリスの食文化も一時期に比べれば格段にレベルが上がっているらしい)、マザーは料理好きな人で、外でイヤになる程口にしたマッシュ­ポテトの代わりに、凝った味つけのピカタや野菜やクスクスを盛ってくれて、日本にいる時より健康的な食生活が送れていた。

クスクスというのは小麦粉から出来たパスタの一種で、ライス代わりになるものだ。

粒が細かく、割とパサパサしていた。

私は見るのも食べるのも初めてだった。

最初は「もしかして…私の嫌いなココナツ か?」と警戒したが、同行していたコーディネーターさんが 「ああ、それ多分クス­クスですね」と言ってくれて正体が分かった。

クスクスなんて陽気な名前だが、 ナイフとフォークで食べるのが難しい。

すくってもすくってもこぼれる。

残さないで食べようとするけれど、どうしても残る。

そんなクスクスに苦戦しながら、おいしいですと返す。

日本ではしないサムズアップもする。

外国人と関わる時には元気がいる。

そうしていると、マザーがおもむろに「私、あまり日本食好きじゃないのよね」 と言­うではないか。

何が気に入らないのだろう、と思っていると彼女は"sticky"と言った。

ねばねばした食感が気に入らないらしい。

「スシなんかも流行っているけど、私は日­本の米の口の中に貼りつく感じがダメ」。

私は米至上主義である。

「だからこの人は、マッシュポテトを出さないのか」と思いつつ、皿の上の料理をつつ­く。

イギリスがEUから脱退するというニュースを見て、マザーが拍手する。

クスクスが、フォークの間からもれていく。

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違いを、面白いと思えるか。

それが人間としての懐の広さになるのだろうか。

「早く米が食べたい」と思った私はまだまだである。

旅行から帰って、撮った写真を見返してみると、空と水辺が映った写真が多い。

「空なんて、どこも同じなのに、...」 と思いつつ「どこも同じだからか」 とも思った。

異質なものや人の中で、空を見上げたり、川や海のある眺め、その中にある街を見たりして、「どこも同じだな」なんて月並みなことを思って安心していたのだろう。

青というのは、私にとっては「どこにでもいる顔なじみ」のような存在かもしれない。

これからも、私はこの色に助けられてゆくだろう。

ベッドの上のタオルケットは青と水色で、枕も青色だ。