ピンク。桃色。pink。rosado。
私の持っている服に、この色の服はない。
縁がないのだ。
進んで身に付けようとは思わないし、第一似合わないとよく言われる。
それもあってか、最近私はこの色が本当に似合うのは女性ではないと思えてきた。
ピンクは、男が似合う。
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同僚に、ピンクの恐ろしく似合う男性がいる。
あんなに似合うのも珍らしいと思うほどよく似合う。
以前、私には彼が何を考えているのかよく分からなかった。
それは単に、分かろうとしていなかったからだろう。
自分と違いすぎたからだとも言える。
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彼に よく言われるので考えるようになった言葉がある。
それは「自由」という言葉だ。
それまで私は、自由という言葉を意識したことがなかった。
たぶん、考えなくてよかったのだ。
自由かどうか考えなくてもよいくらい自由だったのかというと、それは違う。
「自分が何に縛られているのかをまず自覚すること」
という言葉もしばしば彼の口から出るのだが、私の場合、もう一段階必要だった。
何かに縛られるとはどういうことかを考えること。
私は学校が好きだった。
それがなぜなのか、よく考えようともせずに、毎日機嫌よく通っていた。
もちろんそれだけではないが、私は束縛されに行っていたのだと思う。
自分の思うようにやるということが必要ない場所。
それゆえに安心できる場所。
なぜ安心できるか、それは私に自分からやりたいと思うことがなかったからだ。
「何をしたいか」と考えるより前に「これをやりなさい」と目の前にたくさんの物が並ぶ 。
食傷気味になるくらい。
それが縛られるということなのだということにも、そして、自分が自由から全速力で逃げていることにも気づかなかった。
拒絶にも近かっただろうか。
私は恐ろしいほど、自分で考えること、他の誰かのせいにできないくらい自分がやりたいことがあるかを問うことを、無意識に避けてきたのだと思う。
そんな私の前に「縛られていては自由になれない。 自由になれなければ、楽しさや苦しさを味わえない」と言う人が現れた。
それは当然、訳が分からないはずである。
正直、パンドラの箱を開けたのではないかと思うこともある。
けれど、 機嫌よく学校に行きつつどこかで不安があったこと。
大学卒業の時に感じた、言い知れぬ虚無感。
今までのあらゆる選択の基準。
これでいいのかと思うことすら怖かったこと。
その気持ちが「見える」ようになって、だんだん自分という人間のサイズもおぼろげに認識できるようになってきたかもしれない。
ピンクは好きではない。
似合わないし、縁がないのだ。
でも、一面ピンクの桜の季節がやってくるように、縁がなかったものの「存在」や、縁はないけれども同じ世界に生きている存在を美しいと感じる時がある。
そして、不思議につながることもある。
私はいま、何よりも自分に縛られていて、自分のしたいこともうまく考えられないけれども、「自由」という状態を思うことはできるようになった。
ピンクは縁遠い世界を覗かせてくれるような、自分と異なる物の良さを知らせてくれるような色なのかもしれない。