色々ほぼほぼ草稿倉庫

色から思う事や、思い出す事、色には関係ないことも。草稿レベルの弱虫さで。

仕事について、わからないことについて。

仕事は、自己実現の方法ではない。

それをこの頃、少し感じるようになった。

私はなにかを教えることを仕事にしている。教えると書いていいのか、それさえよく分かっていない仕事。この仕事は非常に自己を投影しやすい。自分を切り売りする必要もあると思う。だからスゴイ、というのではない。しかし正直、仕事を始めたときはそれくらいの思い上がりを持っていた。今も、そういう気持ちがゼロになったと自信を持って言えないのが傲慢だ。

「私はこの仕事に向いているはず」と思い始めた学生の頃、私は自分が辛い思いをした人間だからこの仕事ができると思っていた。同じような境遇にある人の気持ちを「わかってあげられる」というのが私の言い分だった。 しかし私の経験が特別であるわけがなく、成長を経る過程では辛い思いをするのが普通だ。そうしたことに近年まで気づかないほど、私は恵まれた環境で大きな挫折もなく育ってきた。

それに、単に同じ経験をすれば誰かの気持ちがわかるわけではない。「わかる」というのは、そんな軽薄なものではなかった。

学校教育という教育形式は 、多くがこの重ね合わせ的理解に重点を置いています 。将来 、知らないことに遭遇したとき 、重ね合わせに使えるようなさまざまなモデルを教えようとします 。先生がモデルであり 、教科書がモデルです 。われわれは学校で教えられたことを自分の判断の基準とし 、人生を切り開いてゆくことになります 。

一方 、もうひとつのわかり 、つまり答えが自分の外 (自然とか社会とか )にしか存在しないタイプのわかりがあります 。[…]

なぜ人は人を憎むのか 、なぜ人は人を殺すのか 、なぜ人は人をいじめるのか 、毎日毎日よくわからない事件が続くのが社会の現実です 。このような世界で 、われわれはなんとか自分なりの生き方を発見し 、工夫し 、その生き方を実験 (実践)しながら 、生きているといえます 。そして自分の選びとった生き方がうまくゆくと自信を深め 、世の中がわかったような気になります 。うまくゆかないと 、自信を失い 、世の中わからないと落ち込んでしまいます 。

山鳥 重 『「わかる」とはどういうことか』

私は、自分の経験に重ね合わせれば人の気持ちが「わかった」ことになると思っていた。自分の知っている道を歩けば仕事もできるし、素敵な大人を演出できると。些細なことはそれで済むだろうが、人間や生活は一通りに割り切れたりしない。生物は、それ自身とんでもない変数だ。だから、『「わかる」とはー』を最初に読んだ時はあまりピンとこなかったが、実際には自分の知っているものと重ね合わせて見えてくるものと重ね合わせて見えなくなるものの両方があり、そして最近は、重ね合わせても見えないものがあることに気づいた。

自己を投影することがプラスに働くこともあるが、(私の場合)マイナスに働くことがほとんどだ。 自己投影しているから、予想もしなかった行動が胸に刺さり、思い通りに行動して欲しくなる。自分の行動に疑問を挟むことが怖くなる。自分の予想からはみ出すものこそ、一人ひとりの持ち味であり自分の限界を超えさせてくれるものなのに。 また、自己投影しているから、自分が生き直しをしているような感覚を持つ。誰かの未来が、現在が、自分のものであるかのように感じる。

言ったことを分かって。お願い。言った通りにして。

それは私のため。

理解できない行動はしないで、私の世界では正しくないから認められない。

お願い、完璧であって。そんな嫌なところを見せないで。

私は完璧でありたい。だから、あなたを完璧にしたい。

私があなたを完璧にする。私があなたを「育てる」。

だからあなたのことは、すべて「よく分かっている」。

全ては、自分の自信のなさや空虚さを埋めるという焦燥感に従っただけだった。

自分という人間が必要としているものを得るためだけに仕事をするのだ、という思い違いがたくさんの人を傷つけている。

仕事を自己実現の手段と捉えることは、他の誰かの人生を自分の人生の空白を埋めるために利用して当然だと言っているに等しい。

自分と仕事を切り分ける。仕事は他の誰かのためにやることであって、自分から何も差し出せないうちから、それ以上のものを望んではいけない。

そう今までの自分に言えたらいいが、きっと、ちっとも理解できないし、しようとしないだろう。

今は、新鮮な気持ちで目の前の相手や物事をみつめたい。 冷徹に、相手のことを分かるわけがないという始点に立つことを忘れないのと同時に、共に生きている者としてできることを探したい。 誰かの印象に残るためではなくて、誰かに感謝されるためでもない。 ただ、誰かの毎日の一部であることを感じる。誰かの毎日の一部である責任を担う。私の毎日の一部は、周りの人がつくってくれている。だから、私ができないと思うことがあっても、それが何もやらなくてもいいということにはならない。

そして、自分が以上のようなことを思ったからといって、それがそっくりそのまま、誰か他の人にもあてはまるとは思わないことにした。

心にも言葉にも、余地が必要だ。

もう少し、毎日がよくなるかもしれない。この、「かもしれない」というところに一番の可能性を込める。とっておきの。理解できない誰かと一緒でなくては作れない日々の素晴らしさを、不確定さに、不明瞭さに、分からないという部分に見出したい。

分からないことは、罪ではない。

分からないことに魅力を感じないことこそ、罪を作る。

いっぱしのなやみをもちたい。